Vol.46 優しさは時として残酷

人生、誰にでも嫌なことはあるし、失敗なんてたくさんある。だけど、失敗で終わるかどうかは自分次第だなと常々考えている。

ある選考や試験、就職活動などで一生懸命頑張っても結果が伴わない、失格・不合格の烙印を押される経験は誰だってしたくないし、繰り返したくない。

数年前、e-Sportsの世界にいたときも嫌な経験をした。ある大会の選手メンバーとして選ばれるために限られた枠の争いをせねばならなかったときだ。普段はチームワークやお互いのコミュニケーションに和気あいあいと溢れる優しい雰囲気も大会前になると刃を尖らせたように緊張感がある空気感になる。

 

仲良かったメンバーや一緒にいる時間が長かったメンバーが落選することも多々ある。こんな時にどのような言葉をかけてあげればいいのか分からない。結局どんなに言葉で綺麗事を言っても「落選」、「選ばれなかった」という事実は変わらないし、極端に言えば「今回、お前はいらない」と言われているようなものだと思うとその辛さは精神的にくる。

 

残酷かもしれないが、プロの世界では競い合うことを前提としているため必ず評価が伴う。今もそうだが、その当時から「誰とも比べられなかったら、人生どれだけ生きるのが楽だろうか」と考えることがある。極度に競い合う世界にどっぷり浸かると、人から認められる、評価されることが全ての人生になってしまう。そんなロボットのような生き方は楽しそうに思えない。

 

合格、不合格など人間を線引きすることに対して、好まない人たちもたくさんいるが、じゃあ彼らが必ずしも正しいのかと言われると疑問に思うところがある。1番にならなくてもいい、勝利することが絶対じゃないんだから個性を活かせば良いなど。こういう優しさ、傷つけないということを優先し、辛さを回避することを優先するあまり自主的な自己改善を促していて、曖昧な物言いで”解決した”とすることがあるからだ。

 

優しさは時として残酷だ。誰でも努力が報われなかったときの現実を受け入れるのは辛い。しかし、その辛さを回避するあまり、ダラダラと繰り返し、優しい言葉をかけ続けられた先の未来は残酷さと後悔が待っている。

 

自分は何が向いていたのか、何に継続して力を出していけばよいのか、はっきりと自分の位置を知ることで”絞り”と”継続”すべきことに気づける。結果の世界では、結果が出なくなれば辞めるというシンプルな決断もできる。自分の勝てる位置と場所をみつけることも大事。

 

”現実と結果を突きつけること”、それについてなぜうまくいかなかったのか、なぜできたのか、考えさせる機会が日本社会、日本教育には欠如している気がする。線引が曖昧なまま、ダラダラと色々手を出してしまい、やるべきことを絞れないのは結果として人の成長を妨げているのではないかと。。。

優しさが時として残酷を生むことについて最近いろいろと考えさせられる。

 

 

Kei Michizoe → プロフィール              Twitterはこちら

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です